とりくみ

「高齢者・障害者地域型仮設住宅」の実践

大震災から学んだこと

あしや喜楽苑はすでに述べましたように、開設直前にあの阪神・淡路大震災に見舞われました。そして西へ最大1メールも傾くという甚大な被害を受けました。 ほかにも大変な事態がありました。4月開設に向け、1月17日の時点で、すでに40人の特養ホーム職員を採用決定していたのでした。全員に現地を見せて「予定どおりに開設できない。どうしますか」と聞きましたら、1人をのぞいて「残りたい、再建を待つ」と言うのです。 一方で、あの大震災のさなか、被災地である最初の喜楽苑では3分の1の職員が出勤できず、行方不明者もいました。その上、在宅で介護をしていた地域の人たちが、家が全半壊し介護ができない、どうすればよいか、と次々に駆けこんで来られ、騒然とした状態にありました。 全国からボランティアが駆けつけ、ようやく落ち着いた1週間目から、私たちもチームを組んで避難所に支援に入りました。学校の体育館や消防署の講堂などで高齢者・障害者は大変苦しい生活を余儀なくされていました。とりわけトイレの問題は深刻で、高齢者・障害者は少しでもトイレに近い場所をと避難所の入り口周辺におられました。入り口から吹き込む寒風と汚れた空気で、重い風邪をひく人を目のあたりにしました。その後避難所肺炎で亡くなる高齢者が続出しました。 この状況を見て、私の頭の中でこの2つの事態を解決する案が閃きました。仮設住宅でいいから、高齢者・障害者のためにグループホームのようなものが建てられないか、そしてそこに、採用決定していた保健・医療・福祉の資格をもつ40人の職員をはりつけて、生活支援や介護を行いたい。そのようなことを1月の末から、県・市に提案し続けました。宮城県の浅野知事(当時)も被災地に入り、ちょうど同じような発想をもたれ、宮城県民の義援金をそのような仮設住宅建設に役立てたいという話があったようです。そんなこともあって、震災2ヶ月半後の4月に被災地のトップを切って芦屋市で「高齢者・障害者地域型仮設住宅」が実現しました。  そして、当法人は芦屋市の委託を受けて4棟の運営にあたりました。 1棟に14人が住み、すべての人に個室が用意され、真中には大きなリビング・ダイニングルームがありました。通称「ケア付仮設住宅」と呼ばれ、その後、被災各市に広がっていきました。 職員は1棟に4人の配置となり、365日24時間体制をとりました。そうすると少なくとも一棟に1人は常に入居者の側にいることができるので、入居者の即応的なケアに応えることができます。さらに、このケア付仮設は施設ではなく住宅ですから、1人か2人の職員体制では対応できないケアは、在宅福祉サービスや在宅医療を利用できます。二重に安心の住まいとなりました。  また、ケア付仮設の正式名称は「高齢者・障害者地域型仮設住宅」です。その名称どおり、性別、年齢、障害種別を超えて入居してこられました。30代の脳性麻痺の青年から、50代の知的障害や精神障害の方々、そして80代90代の認知症や身体障害の方々がいっしょでした。 ほどなく、精神障害の方が不穏になれば、高齢の身体障害の方がゆっくりとテレビを見ながら話しかけ、半日を過ごすといった光景が生まれました。そうすると精神障害の方が落ち着かれたのです。また、身体障害の方が買い物や洗濯に困っていると、精神障害の方は体が動きますからそのお手伝いをする。そんな光景が見られるようになりました。 障害が違うからこそ、互いの残存能力を生かし合えるのだな、と感動しました。  そして次第に皆さんが元気になっていかれました。人間は人の役に立つということが最も生きがいになるのだ、ということも学びました。 そして、このような小規模単位の住まいは安心と同時に、予防にも有効だということがわかりました。少人数の方々に職員がはりついてお世話をしていますと、今日の顔色は昨日の顔色と違うということなどにすぐに気づきます。早く医師の診察を受けたので事なきをえた、そんな事例が多くありました。 そして、入居者の多くが、こんな住まいこそ私たちが求めていた住まいだと言われるようになりました。そのため、法人も一緒になって県や市に恒久化を要望したのですが、被災自治体の財政は厳しく、かないませんでした。やむなく、皆で建設費を出し合って建てたのが、17人16世帯の住まい、生活支援型グループハウス「きらくえん倶楽部大桝町」です。2000年12月に開設しました。あしや喜楽苑のスタッフが常駐して生活全般にわたり支援し、安心の住まいとして喜ばれています。

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