ストーリー

人生の完成期こそきらめく日々を

1999年4月18日、芦屋市のシンボル、ルナホールで95歳の永井志づさんの半世紀ぶりのピアノ演奏会が行われました。 永井さんは、私たちの法人が運営している高齢者総合福祉施設あしや喜楽苑に入居されていたピアニストでした。 1983年に脳梗塞で倒れ半身麻痺で、入居当時は息子さんの顔も忘れる認知症状がありました。

永井さんは1903年生まれ。クリスチャンの家庭で生まれ、小さい頃からオルガンと賛美歌が近くにある生活を送られていました。
その後、永井さんは大阪音楽学校(現・大阪音大)教授となりピアノを教えるかたわら、朝比奈隆氏との共演や「蝶々夫人」を2000回も歌い作曲家のプッチーニも絶賛したという、ソプラノの三浦環氏の伴奏者としても活躍されていました。 1945年、日本の敗戦直後には、米軍の高級将校たちの宿舎になっていた旧新大阪ホテルでもよく演奏されたそうです。
演奏家として舞台に立ったのは戦後のひとときで、その後は大阪音大の講師をされたり自宅で阪神間の多くの子女にピアノを教え、 地元で大きな貢献をされました。しかし、80歳の時に脳梗塞で倒れ、ほとんど寝たきりとなり、病院に入院することが多くなりました。
そして、91歳で阪神・淡路大震災に遭遇し自宅が半壊。そのダメージもあって心身ともにより重度化し、97年1月、あしや喜楽苑に入居されました。 そして、当法人の音楽療法士と出会い、永井さんの人生の歴史を知った彼女が心身の回復に最も効果を発揮するはず、との信念で定期的にピアノにいざなったのです。左手がマヒしているため、右手だけの演奏で最初はなかなかうまくいきませんでしたが、辛抱強く永井さんの意欲が湧いてくるのを待ち、ついに永井さんの方から「あの曲を弾きたい」という言葉がきかれるようになったのです。
いったん乗り気になったあとは早いスピードで勘をとりもどされ、ついにショパンをはじめ数々のピアノ曲を演奏されるようになりました。

そして、国際交流にも積極的に取り組むあしや喜楽苑を訪ねるフィンランドや台湾からの関係者に、歓迎のピアノを弾いてくださるようにもなりました。彼らにヤンヤの喝采を受けて、満面に笑みを浮かべ拍手に応える永井さんの姿はまさに往年の華やかな舞台上での永井さんを彷彿とさせる姿でした。並行して認知症も軽快、そして奇跡の復活をなしとげ、ルナホールでの演奏会へと発展したのです。
演奏会当日は地元の方や全国からかつての教え子やお弟子さん、多くの方々が聴きにこられ満席でした。 その後、総務省のエイジレスライフ賞を受賞。

100歳の演奏会を愉しみにされていましたが、明くる2000年の3月、肺炎で他界されました。 息子さんからのお礼状には「かなり重い症状にあった母をそのままの状態で亡くしてしまったと仮定するとき、その死とのあまりの違いに気づかざるをえません。
人生の最後の2年半にきらめくような時をもてたことがどんなに重要な意味を持っているのかを知りました。残された者にとっても、はかり知れないものがありました」と記されていました。 麻痺した左手を音楽療法士が弾き、渾身の力をこめて右手でショパンを弾く永井さんの姿は、人間のはかり知れないすばらしさ、 高齢者の可能性のすごさを感じさせます。
太陽が沈む時の雲間からの光芒は、きらめきつつも暖かい。
人生の最終章こそ、そのきらめくような日々となるよう願ってやみません。